この記事は、以前このブログにあった「研究しない研究室の同僚」という記事をリライトしたものです。

以前の記事は、僕が大学院の終わりの方で書いた記事で、「同じ研究室のメンバーの愚痴と同じ修士号を持っている人でもめちゃめちゃ研究に時間をかけている人とそこそこしている人と全くしていない人がいることに対して僕が思うこと」という内容でした。

ちなみに、その同僚は3月に晴れて卒業し就職していったのですが、その後この記事は多くの人に読まれるようになり、あまりにも当事者のリアルな実情が書いてあるのでまずいと思い書き直すことにしました。

この記事が検索で引っかかるということは、このテーマに関心がある人が多いということだと思います。なので、昔の僕の愚痴ではなく、周りに研究しない人がいて困っている、もしくは、研究室で研究したくなくて困っている人に向けて、大学院の研究することについて僕が思うことを書きます。

 

まず前提として、

研究室で研究もしくは、学習することは個人の権利であって、義務ではない。

理系の多くの大学院では、修論が受理されることが卒業の重要な条件になっているが、現状修論が受理されるかは、学生本人と指導教官が納得できるかで決まる(周りの先生が横やりを入れることもあるが・・・)。

少なくとも、僕がいた環境ではこれが言えました。

その上で僕は、

もうちょっと明確に学生の研究室での活動を定量的に推し量る基準が必要なのではないか?と思っていました(いまもそれは変わらない)。

ただ、大学院を卒業することを通過点ととらえてもっと先のことを見ると、大学院生が感じる不公平感も違ったものに感じると思うんですよね。

 

 

研究室によって大学院生活って全く異なる

 

他の大学院がどうなっているのかあまり知りませんが、理系の大学院にいたことのない人のために、自分の知る限りで理系の大学院を現状を説明すると(知っているという人は読み飛ばしてください)、 

同じ大学の大学院でも研究室によって忙しさはまちまちで、お盆と年末年始以外は休みはなく、バイトも禁止されて在学期間ひたすら研究に身をささげるブラックな研究室もあれば、一週間に一度しか学生が研究室に来ない、もしくは活動しないピュアホワイトな研究室も存在します。

これは別に極端な例じゃなくて、意外とブラック研究室、ホワイト研究室と呼ばれるところは多かったりするんですよね(そういうところは話題に上がりやすいから多く感じるというのはある)。

さて、じゃぁ自分が所属していた研究室はどうかというと、ノルマ的なものは一切なくやりたいだけ研究していいよというところでした。これは本来の研究室のあるべき姿だと僕は思うのですが、基本的に学生のやる気に任せるという運営方法取っていて、何をどれくらいやるかは自由に決められました。

この方針はすごく気に入っていて、休日に研究室にいて怒られることもないし、逆に海外インターンで数か月研究室を空けることもありましたが、どうしてもこれがしたいといえば、テーマに関係ないことでもやらせてもらえました。

ただ、学生個人のやる気に任せるということは、ある意味性善説による運営方針で、個人にやる気がない場合どうすることもできないんですよね・・・。

そうなると、2年間大学院に所属しても全然研究が進まないということもありうるのですが、修士論文に関しては特段、定量的な基準があるわけではないので、卒業することは可能なわけです。

修士論文を提出するんでしょ?と思われるかもしれませんが、一つのテーマを複数人のチームで取り組む場合、データは他のメンバーが出したものを利用することができますし、理論の部分は先輩のテーマを引き継げば半分以上、前任者の修論や論文、学会資料から引用することができます。

さらに、研究室外の授業は学生は研究室で研究しているものという前提で運営されているので、評価基準があいまいだったり、授業に来れないブラック研究室の学生のために出席はとらなかったりするわけです。

そうなると、いったい何をどう評価されて修士号というものは与えられるのか?、そもそも修士号とはいったい何を証明するものなのか?そして、自分は何のために、2年間という月日を研究に費やしたのか?わからなくなります。

 

 

修士を卒業することは結果じゃない、あくまで自分自身の投資

 

ここから、やっと本題に入ります。

修士号や学士号(とったことがないのでわかりませんが、多分博士号も)を、結果や資格ととらえる人がいます。自分も卒業するまで少しそれを期待していたのかもしれません。

ただ、今大学院を離れて冷静に考えるとこの考えは間違っていました。

修士号を得たことは重要ではなく、重要なのは研究室での経験を得た自分がこれから何をするのかではないのでしょうか?

もっと具体的に言うと、大学院に行く前の自分がなせなかったことが、研究室での経験を通して、大学院を出た後に何か一つでもできるようになっていればそれは、2年間、大学院で燻銀の学生生活を送ってきた意味があったことになると思います。 

つまり、研究室での努力に対する対価は大学院を卒業することにあるわけではなく、その後の人生において、大学院での経験を活かして得た結果にあるわけです。

むしろ、卒業というイベントは自分への投資期間の終了を意味していると思います。

もちろん、その後も自己投資はできますが、同じ試行錯誤でも社会と大学では学ぶということの意味合いが違うように思えます。少なくとも学習にかけられる時間や内容の自由さは確実に大学の方が多いです。

と考えると、楽して卒業した人を妬む気持ちも起きなくなりませんか?まぁ現在進行形で悩んでいる人はそんなふうには思えないかもですけど・・・。

卒業してしまった今、僕が思うことは自分の現状を見てもっとあの時、すべきことがあったのではと思うだけです。学生時代はあんなにチャンスがあったのだからもっと自分に種をまいとくべきだったと(その時はあれで必死だったんですけどね・・・)。

そして、もう一つ言えることは大学院生活で自分に投資できることは、研究だけじゃないということです。だから、他のことにリソースを割いて、その後の自分の道を支えるような(別に直接関係しなくてもいい)経験を得るのも一つに手だと思います(他人に迷惑をかけるのは避ける必要がありますが・・・)。

 

今の僕が大学院生活に思うことはそんなところです。

過ぎ去ったものの立場から言わせてもらうと、卒業どうこうじゃなくて、もっと先を見据えて学生生活を楽しむと今抱えている悩みはなくなるかもしれません。

 

 

それでは。