学歴ロンダリングがちょっと前に話題になっていました。

ロンダリングってちょっとネガティブな言葉ですね。まるで学歴を偽装しているみたいに聞こえます。

でも、修士号や博士号をその大学でとったならば、まぎれもなくその人はそこの卒業生ですし、同じ空間に留まらず学ぶ場所や分野を変えるのは僕はすごくいいことだと思います。

それなのに、修士進学のタイミングで他大に移った人のことをちょっと差別的に「学歴ロンダリングした人」と呼ぶのは引っかかります。

というのも、僕の研究室にも他大から移ってきた同僚がいて、結構卒業が危ぶまれているんですけど、研究室内では「そもそも同僚をうちの卒業生として認めていいのか?」的なことをいう人がいる(それは僕も思う)ということがあって、「学歴ロンダリング」が批判される構図と似ているな感じたんです。

ということで、今回は同僚のことを踏まえつつ、なぜ学歴ロンダリングは批判されるのか?そして、当人と周りの人はどうしたらいいのか考えます。(木を見て森を見ず的な議論になりそうですけど・・・そこは勘弁)

 

 

最終学歴ではなく、学部と院時代を分けて評価すべき

 

僕は決して、学部時代とは別の大学院に行くことを批判しているわけじゃないです。むしろ推奨してます。僕も学校を変えたわけではないですが研究室を変えていて、その選択は正しかったと思っています。むしろ何年も同じところに留まる方が不健全です。

で、同僚の話をすると、他大、他分野から院に進学するタイミングで今の研究室にやってきたのですが、最初の半年ぐらいは普通にこなしていたものの、今年に入ってからは月に一回程度しか研究室に来なくなってしまい。自分のテーマを全く進めていないという状況です。

コーディングが作業の5割を占めるのですが、1年半たっても全くコードが書けるようになりませんでした。開発環境の構築で詰んでいる感じ・・・。

で、見かねて博士が代わりにコードを書くようになったのですが、それがあだとなって自分で全く研究を進めなくなってしまいました。

先生も先輩もこんなこと今までなかったと焦っていましたが、どうしてこうなったのか本人の研究に関わるメンバーと話し合たところ、同僚はうちの大学の学部を卒業したわけではないからという結論に達しました。

理学部、工学部はどこもそうだと思いますが、きつい授業をわざと必修にしてあったり、毎週2,30枚の実験レポート課題を提出させっれたりしてかなり絞られます。で、3割くらいの人はそれができずにいつの間にかいなくなります。

研究室に配属される頃には、どんなテーマに対しても気合で研究結果を出せるようになっているわけです。

同僚はそういう経験がなかったようでした。研究室内で昔を振り返って、レポート提出のために昔は毎週徹夜をしていたよねー的な話をしているメンバーに引いているという感じです。

ただ、そういうふうにフィルターが掛かるのは学部までで大学院になるとなくなります。外部の人は修論はきっと大変だよねって思っていると思いますが、卒業できるレベルの修士論文を提出するのはそんなに労力はかかりません。全く研究室に来なかった同僚も修士2年の最後の半年だけ研究室に来て普通に作業すれば十分卒業できる結果が出せたと思います。

まぁ、研究結果が出るのは運もあるので、研究結果自体に課している基準は低くなっているのだともいます。

それに、一人で研究するわけではないので優秀な同僚や先輩に恵まれればその人に乗っかっているだけで結果が出せちゃいます。

博士号を取るのは外部に認められる必要があるので大変ですが、実は学部生の卒論もあっさりしているもんです。それでも、みんな好きでこの世界にいるので、自分への期待に応えるために頑張ります。(あと上からの重圧)

で、何が言いたいかというと、学部、修士、博士で問われている力が違うんですよね。

学部はさっき書いたように、知識や学習力、そして気合と根性を見られていて、これらはいわば基礎力です。

逆に修士は自分で課題を見つける力とか、筋道を立てて問題を解く力とか、外部への表現力とかです。つまり応用力。

で、博士になるとそれに加えて教育とかチームマネジメントとかそういうことも入ってきます。

でもって、修士号は取得者を増やしたいという大人の事情と学部を卒業できたんだからほっといても研究するはずだという性善説からフィルターが甘くなっていて、同じところを出ていても卒業生のピンキリなんですよね。

なので、相手の経歴を見るとき、自分が見たい力によって学部の学歴を見るか、修士の学歴を見るか変えるべきです。

学歴ロンダリングと差別されてしまう原因はここにあると思います。

学部で身につく力である基礎力を見たいのに、修士の経歴を見てしまうと、ギャップが生まれてしまうというわけです。

 

 

やっぱり修士もしっかりとした基準で評価したほうがいい

 

現状ですと、修士の卒業できるかできないかの基準って、研究室の先生が許可を出すか出さないかです。

これは相当、先生によって基準が違うので、同じ大学の修士でも差が出てしまいます。

そもそも、厳しい先生のもとには研究したい学生が集まるし、逆に緩い先生のもとには研究したくない学生が集まってきます。

でもって、教授といっても人間なので2年間過ごした学生に印籠を渡すのはきついんですよね。ことを荒げたくないからみんなに修士号を配ってしまいます。

しかも、留年させたとしても面倒を見るのは自分なので足を引っ張る人はさっさと出て行ってもらおうとなってしまうわけです。

「優秀だけど不真面目な学生は留年させれば仕事するので卒業させないけど、残したところで役に立たない学生は教授はさっさと卒業させる」と思っている人は多いと思います。僕も去年先輩たち見ていて思いました。

で、僕は決して優秀でないので、言えた口ではないですが、学歴ロンダリングと差別されないためにも、修士号の取得基準をもっとはっきりすべきです。

今の基準は不平等すぎて、果たして修士号とはいったい?ってなってしまってます。

例えば、査読付きの論文は厳しくても、それに準ずる出版物を出さなきゃいけないとか、年に何回以上は学会発表をこなさなければならないとかです。

あと、輪講や週報、ゼミなどの出席はとるべきです。半分以上来なかった人を進級させるべきじゃないと思います。

正直、同僚は一年の夏ぐらいに研究室を休みがちになり、みんなに置いてかれてしまったというのはあると思います。本人は夏休みのつもりだったのかもしれませんが、来ないと卒業できないという風にすればしぶしぶゼミにも参加したと思うので、今みたいなことにはならなかったかもしれません。

先生に管理させるのは先生の精神的にきついのであれば、学校でシステムとして端末とIDで出席を管理するぐらいしていいのでは・・・と思います。

 

 

すべての元凶は就職のためだけに修士号を取ろうとしている人たち

 

といっても修士に進学するほとんどの学生は研究がしたくてここに残っているので、ほっといても勝手に頑張ります。ただ、一部の就職のためだけにネームバリューのある大学に来て修士号を取ろうと考えている人が全く研究をせずに修士号を取得して、修士としての能力がないのに社会に出て行ってしまうので、本当に志があって新しい環境に挑戦している人たちも一緒に学歴ロンダリングと差別されることになるというのが今の構図です。

まぁ、就職目的で大学院に来ても別にその能力があればいいのですが、学部と違って院は平等なチェック機構がないのでそういう人たちをはじけないのだと思います。

結局、今の現状では、修士卒全体の評価を下げてしまっているので、修士の評価を下がってしまえばわざわざ2年間大学院で研究するという人も減るのではないでしょうか。

修士号取得者の数を増やしたいから修士号を大量配布しているのに、修士号の価値が下がれば修士を志す人を減らすことになるように思えます。

現実はそんなに単純ではないと思いますけど、実際大学院進学率はここ数年ずっと落ち続けてますよね。

就職率の改善が理由といわれていますけど・・・、社会の中で大学院で培ってきた能力を評価している人が少ないということにつながっていくと思います。学生の親で自分が大学院を立ていない人は、周りに院卒で優秀な人がたくさんいれば、子供も大学院に進学させたいと思うはずですが、2年間多く勉強してるのに大したことなぁと思われてしまったら、わざわざ高額な学費を払う人はいなくなりますし、学生も大学院に残って学び続けたいと思わなくなるのではないでしょうか。

 

ということでまとめると学歴ロンダリングの背景には、

修士と学部で問われている力が違うから人の経歴を見るときは両方見たほうがいい。最終学歴に固執するのは良くない。

修士の卒業基準は平等じゃないので、学会や論文(出版物)といった外部の基準を取り入れたほうがいい。

ってことが言えると思います。

 

 

それでは。