6年間の大学での生活を終えて、社会人として半年間研修を受けることになりました。
そんな中で、大学と会社という組織での生活の違いとして一つ今後のことを見通すということと、自分で決めることとが難しいのかもしれないと感じています。
所属する場所とか割り当てられる仕事ってその時の需要や組織の枠組みの中で決まるもので、大学のようになかなか強引に自分で決められるものではないと思うので、昔よりは自分がやるべきこととか、必要なことが見えにくいと感じます
と言っても、6年前大学に入りたての頃もこれから自分が何をするのかわかってなかった気もします。とすると、今の環境でも数年いればその先のことが見えてくるかもしれません。
ただ一つだけ言えることとして、自分のことが客観視できない今の状態ではこのブログに書くことがないんですよね。これまで、大学生活についてあれやこれやと書けたのは、自分のことも他人のことも上からの視点でとらえることができたからで、社会に出てからそれができるようになるのはだいぶ先のことだと思います。
逆に自分の置かれた世界がわからない今こそ感じられない悩みや不安があると思うので、いつか答えが見つかったらいいなぁくらいで、現在頭にあることを書いていこうと思います。
自分が生きている意味が分からなくなる恐怖
ブログとかTwitterとかでいろいろ書いている人は意識高い系の人が多いのかもしれませんが(実はそうでもない?)、自分ははっきり言って意識高くありません。
浪人している時、周りには医学部とかそれに匹敵する名門に合格してしまう本当の意識高い系の人がたくさんいましたが、そういう人たちと自分を比較すると確実に劣っているのは精神力だなと感じていました。
で、今の環境でも、またそのタイプの人間と話すと前への推進力というか、努力することへのコストというか、精神的な何かが違うなとあらためて感じるわけです。
ただ、自分だってそこそこ努力はしてきたつもりです。それでも何を糧に今まで頑張ってきたのかが彼ら彼女らと違っていて、自分の場合それは「生きる意味を見失う恐怖」でした。
心当たりがある人は共感してもらえると思います。逆に同じようなことを感じたことがない人はいったい何のこっちゃって感じだと思います(ここで読むのを止めてもいいかもですし、物珍しいものを見るつもりで読み進めてもらってもいいです)。
具体的にこの恐怖とはどういうものかというと、使命感的なものを感じ続けていないと自分の存在価値が分からなくなって心が保てないという感覚です。
で、それを得るために組織や人間関係の中で役割を持とうとするのですが、強制されればいいというわけではなくて、自分がそれをやることの意味が分からないと、自分の存在とか未来にも疑問を感じてしまのです。
そうなると、他人に対しても自分に対しても役に立たないと自分は存在価値がないとなってしまうので、努力するしか道がなくなるなるのです。ただ、目的が役目が課されることが重要なので、それを果たしたとしても幸福感を得られないし、だんだんと本質から遠のいてしまいます。
自分にはそういうところはないですが、わざと”かよわい人”と共にいてその人から必要にされることで幸福感を得ようとする人も近い感覚を持っていると思います。
それで、今の自分はこの先の人生を見通せないので、生きる意味を見失う恐怖を感じるかもしれない恐怖を感じる恐怖を感じているわけです。
生きている意味を求めるのは現代人だけ?
さて、ここからさらに何の根拠もない妄想をしたいと思います。
僕は生きる意味がないと生きられない病は現代人の病気だと思うのです(実際は昔の人でも同じようなことを感じる人がいなかったわけではないと思いますが・・・)。
生きていく中でその人生に意味を求めてしまうのは、逆にいうと生きていること自体に意味を感じていないことになります。
もし例えば旧石器時代のような生きるために、一日中食料を探し回るような生活をしていたら、今日を生き延びたことに満足できるのではないでしょうか?
そして、今日の努力は明日生きるための努力だし、一週間後、一か月後、一年後の未来への不安から解放されることはないと思うのです。
だから、いま生きていることに対して理由が欲しいと思うことは少なかったのではないでしょうか?(実際に聞いてみたい笑)
逆に、今を生きる現代人はとりあえず大人になるまで、生存するための肉体的なコストはかなり少ないと思います(精神的なことは知りません)。
とくに、意味がないと生きられない病に悩まされるいる人は家族のおかげで、特に生きるということに苦労しなかったのかもしれません。少なくとも自分はそうです。
そのおかげで生きる以外のこと、勉強や部活や趣味に注力することができました。ただ、その副作用として生きるというこういう自体に意味を感じられなくなってしまったとは考えられないでしょうか?
つまり、人生に意味を求めることはある意味では贅沢なことであるし、それと同時にある意味では現代社会を生きている人にとっては逃れられない深刻なことなのかもしれません。
さて、僕があえて今こんな事をブログに書いたのは、テレビとかSNSで「優生思想」というワードを目にしたからです。事件のこととは直接かかわりがないと思いますが、改めて考えると、意味がないと生きられない病と優生思想には通ずるところがあると思って恐ろしくなったわけです。
確かに人は他者に対して何らかの役目を持っているかもしれませんが、それは生きている結果得られたもので役割があるから生きているわけじゃないです。
そこの因果?みたいなものが逆になってしまうと、自分は生きる意味がないとか、誰かは生きる意味がないという思考に付きまとわれ幸福を感じられなくなるのではないでしょうか。
今後はシンプルに今自分がやりたいことを考える
医療も教育も整った現代日本で育っても、みじんも生きる意味に疑問を感じたことがない人だっていると思います。
僕が思う真に意識が高い人たちもそんなことは思わないのだと勝手に思っています。逆に意味を求めてしまうのならその人はこっち側の人間なのかもしれません。
それで、これから僕がどうするのかという話ですが、生きる意味を考えることは多少は必要なことですが、考えてもきりがないし、そもそも僕が生きているのは自然現象で最初から意味なんてないということにうすうす気がついてきたので、精神的にダメージを負うほど考えないようにします。
残念ながら、僕もあなたも生まれてきた理由なんてありません。ただ、一つの現象として今この時に存在しているだけです。
たぶん答えはシンプルで、生き物が生きているのは、風が吹いたり雨が降ったりすることと同じように科学的に起こってしまう現象なのではないでしょうか。風は他に影響を及ぼすことはありますが、その風自体に意味なんていちいち考えないですし、考えたところでわからないです。
それと同様に風はこう吹かなくちゃならないとか、こういう風に吹いたからどうとかってこともないです。つむじ風とか春一番とか風には名前がありますが、それは全部人間が勝手に決めたことで、同様に目的とか役割とかこうしなくちゃいけない的なものは人が勝手に空想したものだと思います。
だから、未来から逆算してどうしなきゃいけないと考えるより、等身大の自分からどっちに進みたいかを考えればいいのではないでしょうか。風が吹く方向に吹くように、人もまた進む方向に進むわけです。
したいことがなくなったとしても、またその時点でしたいことを探せばいいと思います。
とりあえず、自分のキャリアを客観的に見通せるようになるまではこの方針でやっていこうと思います。一、二年もすれば今の環境でもやらなくちゃならないことがたくさんできると思うので、そしたらもう一度このことを考え直すつもりです。
それでは。