最近、師弟関係がこじれて、組織やマスコミを巻き込んで大騒動になるってニュース多くないですか。
これまでの自分だったら、ふーーんって感じで流していたと思うんですけど、今はひとごとだと思えないんですよ。ほんと。
まぁ以前、教授ともめて研究室を変えるはめになったからなんですけど、ニュースを見ている心当たりがあることだらけで、ついつい見入ってしまします。
研究室を追い出されたってところで引っかかった方はこちらの長ったらしい記事をどうぞ。
で、研究室を変更したらいろいろ大変になったけど、充実した日々を送れるようになって本当に良かったと思うこの頃ですが、アマチュアやアカデミックな世界で毎月起こる師弟関係のこじれに関して僕が思うことは、
師弟関係は間違ってる
です。
師弟関係自体を否定しているわけじゃありません。プロの世界でまだ残っている師弟関係は上手くいっているものもあるのではないでしょうか(落語とか?)。
でも、やっぱり教育という世界の中で確実に言えることは、教育者はMasterではなくTeacherってことです。
資本主義の世界で荒波にもまれながらのし上がった人はともなく、学校や競技を言った狭い世界で生きてきた人間がMasterになることなんてありえません。
教育者の方には自分のことを教員と規定してほしいのです。
少なくとも、大学ではそうしてください。
なぜ、プロがよくてアマ(アカ)の師弟関係はダメなのか。それは間違った方向に進みやすいからです。
確かに、競技や研究の世界で結果を出すことは素晴らしいことだと思います。私も高校まではサッカー部でしたし、周りに大学でもサッカーを続けている人間はいるのでよくわかります。
あくまでも教育という世界
でも、あくまでこの世界で教育者が相手にしているのは子供です。
自分のことを考えると思うのですが、大学院に進んだ今でさえ一年前の自分は恐ろしく単純で無知です笑。簡単に騙されてしまうし、疑う能力が低いです。
で、教育の世界はあくまで教育のためのもので、いわば”ごっこ”的な側面があると思うんですよね。で、必ず一定数勝者出るようにコントールされている疑似的な空間になっているのです。
それは、あくまで不完全な子供たちに一種の成功体験を与えるためのシステムです。
じゃあ、社会ではどうでしょうか・・・。
大学院から出たことがない私はわからないのですが、アルバイトでJリーグのグッズの制作・販売のお手伝いをさせてもっらっている経験からふと思うことは、お金をもらっている人たちって完全な勝利というか、完全なハッピーエンドはありえないのではないでしょうか。ここで生きている人たちって複雑な要素の中で折り合いをつけて進んでいる・・・。
うーーん。大学院生の経験と語彙力じゃ、どんなに妄想しても説明できません。でも、なんとなくわかってもらえるのではないでしょうか。
教育(アマ)の世界とプロの世界ではお金の流れが逆
そんなんかで、自分をMasterだとみなすことができる人は何人いるのでしょうか?そもそも、プロの世界は師弟関係の間にはお金が発生していると思うんですよね。そもそも、起業家とか、大御所のタレントとかってその人の力で周りの人を養っているわけですから(逆にそれで調子に乗ってこじれる関係もあるのか)。
で、そういう人でも自分が彼らを背負って立つことができなければ、人が離れていくことは分かっていると思うんです。
それに対して、教育の世界ではお金の流れは反対に動きます。ここはなんだかんだ重要です。てか、超重要です。雇用者は教育者ではないんです。雇用者は学生の親か行政で、教育者は学生を成長させるために教育を委託されたのです。つまり、被雇用者なんです。なんども言いますが、教育という世界の本質はここにあると思います。逆に言うと教育者として道踏み外した人間の共通点はこの原則を忘れてしまったことにあると思います。
親が何のためにお金を出しているか、なぜ子供の教育に税金が使われるのか考えれば自分のすべきことはおのずと見えてくるはずです。それは学生が人間的に成長することです。
よく、部活動の顧問の先生が生徒に練習を強要しすぎて、親からのクレームを食らうという話を聞きますが、それもこの本質を理解していないからそうなるのだと思います。
親は部活動を通して子供に成長してほしいのです。確かに、いい結果を出してほしいという気持ちや厳しい練習に耐えたり、大舞台を経験すればより子供の成長につながるという思いもあると思いますが、根本には子供の人生にプラスになってほしいという考えのもと学校に通わせてると思います。
絶対プロになってほしいというのなら話は別ですが、その場合は違う組織(クラブや強豪校)にお金を払うのではないでしょうか。
別に行政だって、強い選手を育てたいから公立の学校を運営しているわけじゃないんです笑。社会主義ならあり得ますが・・・。
ただ、大の大人が教育という狭い世界に閉じこもっていると自分が被雇用者であることを忘れて、簡単に自分はMasterであると勘違いしてしまうと思うんですよね。
特に研究室では、その傾向が顕著です。大学生とか大学院生って知恵だけはいっちょ前ですが、人間的にはまだまだおこちゃまですので、ある種の緊張感が欠如してしまいやすい。反逆される可能性とか、逆にコントロールされる可能性とか。そもそも、数十年教職をやっている教授や公立の学校の先生って、終身職みたいなものですから自分が解雇される可能性を感じられなくなります。
別に普通のお仕事でしたらそれでいいかもしれませんが、人を導く立場の人間はそれじゃいけないのではないでしょうか。
さらに、しょうがないことですが実社会とは違って、学生と教員との間では名実ともに平等ではないので、理不尽な状況になりやすいんだと思います。
そんな師弟関係は結局、未熟な相手を制御しているだけで、お互いを高めあう方向には行きにくい気がします。
健全な師弟関係はいつか弟子が師を超える可能性を秘めたものである必要があるのではないでしょうか。でも、学生がその域に到達することはありません。そもそも、その前に師から去るのですから。
だから、教育者はあくまで教員なんです。師にはなれないんです。
本当にかわいそうなのは・・・
自分の元教授もそうでしたが、本当にかわいそうなのは自分をMasterだと勘違いしている教員本人です。
もはや彼らは自分を叱ってくれる上も張り合う横もいない状態で、下をコントロールすことに満足している存在です。
本来、彼らの生きがいは学生を育てることなのに、学生を自分の駒としか見れなくなってしまったのです。
で、それが普通になってしまうと、自分の組織内から非難されることに対応できなくなるのではないでしょうか。ただ本人がそれを自覚していても、能力的な問題でその人がここから抜け出すことは不可能だと思います。
資本主義の世の中では、たとえ上がいなくなったとしても、お金(利益)という形で市場によって常に評価され続けているわけですから、間違った選択をしていればそのフィードバックはきっと帰ってくるはずですし、常にその緊張感にさらされるはずですが(きっと)、ある程度上まで登りつめた人間には終身的な雇用が約束されているアカデミックの世界では完全に社会主義が展開されます。
そうならないためにも、教育者を同じ場所にとどまらせないのが重要だと思います。時には資本主義の風に当てるべきです。本人のために。
そう考えると、欧米のジョブシップ的な教育者がいつでも自分の身分を変えられる働き方がいいなって思います。小中高と社会人から教員になった先生にあたりましたが、みんな本当にいい先生でした。
うーーん。大学院生が考察できることじゃなかったか笑。
それでは。