なんのために働くかは個人の自由で、実際に働いていると人によって働く理由はまちまちなんだなと思います。

昔の人の働く理由はきっと生きるためで、それこそ縄文時代だったら人は今日生きながらえるために必死に動物を追っかけて野を駆けずり回り、森で木の実を集めていたのだと思います。

そこには生きる以外の理由なくて、全員が平等に生きるためだけ働き、失敗すれば命を落とすシンプルな世界が広がっていたんじゃないでしょうか?

それが現代になると、生活に余裕ができて働く理由も多様化してきました。

生活が全く苦しくないとは思わないですけど、生きることの難易度というかレベル感って100年前、1000年前、10000年前と比較したら格段に簡単になっていて、もはや純粋に生きながらえるために働いている人はいなくなったと思います。

となると、人は別に働く理由を求めるか、働かないかのどちらかになります。

働く理由が多様化した集団に息苦しさを感じる

ここからが本題なのですが、ここ数年というか社会人になってから組織の中で周りの働く理由が違うことに対して息苦しさを感じるようになりました。

良く言えば、多様性がある組織と言えるのだと思いますが、関係者が持っている目的というか方向性がまとまるなんてことなんてないんですよね。

となると、何をするにも全員の方向性を考えて妥協できる場所を探すことになって非常にめんどくさいです。でも、そうしないと個人個人の働く理由を満たせなくなったメンバーから協力を得られなくなるのでどんどんプロジェクトが回らなくなります。

かくいう自分も生きること以外に働く意味を見出さないといけない人間の一人です。おかげさまで生まれてこの方お金で困ったことはないですし、実家は裕福ではないですが食べ物で困ったことはありません。となると、働く意味をいろいろ考えないといけないわけです。それなら、働かなくいいじゃんって話なんですけど、働かないで他にやるべきことも見つけられないので退屈してしまって生きてらんないんですよね。

昔の人からすると贅沢な悩みだと思いますが、何もやるべきこともやりたいこともないという状態はかなりきついです。そういう日々を過ごしていると精神的に病むだけではなくて、自分はひどい頭痛がするようになって体調も壊します。

なので、適度に忙しい状態にしないといけないですが、特にやりたいことも夢もない人間は忙しくある理由が必要になっちゃうわけです。

個人的な見解ですが、この理由探しのために自分の内外ででっち上げられた働く理由を信じてしまう人は精神的に脆いと思っています。本当は頑張る理由もないのに幻の理由を追っかけて、こじらせてしまう方って多いのではないでしょうか。

生きるために働くという状況のシンプルさ

そんな自分ですが、家庭環境が変わりかなり金銭的に厳しい状態になりました。この状態は一応10年くらいで脱せる見立てですが、世帯年収が安定せず、ローン等で出費がかなり増えたので人生で初めて貯金を切り崩しながら生活するという状態になったんですよね。

直近の資金計画などはFPに相談したり、個人でだいぶ計算して今の収入でギリギリやっていけるようになっていて、今までの貯金はすべて頭金として使ってしまったので、シンプルに今の収入を維持して、さらに当面は毎年昇給しないと本当に生活できないという状態です。

となると、世間一般でよく言われる「家族のために働く」という状態なってしまっています。別にそうなるまで自分が「家族のために働く」という感覚を理解するとは全く思ってないですが、いまの自分が働く理由は「家族のために働く」以外の何にでもなくて、それが大きすぎて、この状況になる前に探していた働く理由が思い出せなくなるくらいどうでも良くなってしまいました。

おもえらく、自分は生きるために働くこととは無縁だと思っていましたが、今は生きるために、お金が必要。お金が必要だから働くシンプルな論理で働くことになりました。

働く理由を探す事から解放された自分は、過去の時代の人間のように生きるために働くという状態になってしまいました。

生きるという間違いなく望んでいることのために働くというのは、働くことへの動機というかインセンティブが確実に大きくなります。しかもそれが家族の人数分増えるので働いてお金をもらうという現象への価値が格段に上がるんですよね。

そうなるとなにが起こることかというと働くことへの精神的な負担が減りました。なにかストレスがかかることがあっても生きるためだからしょうがないと簡単に片付いてしまうので、それ以上悩むこともないし不満を感じることもないです。

金銭面的に追い込まれて、精神的に楽になった部分がある

正直、この状況は楽だと思います。もちろん、楽になったのは働くことへの意味探し的なところだけで、金銭とか時間とか体力的なところは確実に格段ときつくなってます。

よく、テレビ番組とかで、辛いときも家族がいるから頑張れました的なことを言っている方がいて、じぶんはそれを見てそんなわけ無いだろうと思っていましたが、自分がその感覚を理解したことに驚いています。

それが人生と言ってしまえばそれまでですがこれは結構個人にとっては重大なことだと思うんですよね。

そして、話は冒頭にもどりますが組織にとっても重要だと思います。

働く目的が様々存在していることは否定すべきことではないですし、多様性をという観点では絶対に必要なことだと思います。生きることだけを働くことの目的にするのは「原始にもどれ」的な危うさがあることもわかってしますが、いろんな思惑でうごいいている人間の中で働くことが最近めんどくさいと思うようになってしまいました。

そうなると、ただお金を稼ぐために、売上上げるという資本主義の原理で働いている人で構成されていた組織のほうが働きやすいのではないかと感じてしまいます。ないものねだりだと思いますが。

確かに、それではものすごい高い意識や野望のために働いている人のように高いパフォーマンスは出せないと思いますが、意外とお金のためと割り切って働いている人で安定したパフォーマンスで仕事ができる人って結構いるなと最近気づきました。

さらに、生活を安定させるには、長期に渡って会社から賃金を支払われる必要があるので、会社の利益に対してインセンティブを感じやすく、組織の利益のために組織内の人間に協力的に人が多い気がしています。

もちろん、自身の成果のために足を引っ張る人もいると思いますが、やっぱり長期に渡って安定した収入を得るには組織の利益を優先したほうがいいという判断になるので、組織内外の人に対して誠実な人が多いのではないでしょうか。自分がそう思っているだけかもしれませんが。

もちろん、生活のためお金のために働く人だかで会社は成り立たないのは理解しています。ただ、組織を構成する9割以上の人間はお金のために働いているだけでいいのではないかと思う今日この頃です。

そうすれば、組織内の余計と感じてしまうような調整や衝突は減るのではないでしょうか?

それでは。