地元に帰ると必ず一回、またかぁと思ってしまう光景を目にするんですよね。

それは、学部卒とか高卒で社会人歴が長い人が、大学院や留学で学生をやっている同年代人に「いま何をやってんの?」と聞くという光景です。

単に、「こうこう、こうで、こういうことをやっている」「へぇ~」とやっていることの話をするのは別にいいんですけど、なんとなくそこに仕事という概念の押し付けがある気がするのが引っかかります。

要は、そこに「まだ、働いてないの?」的なメッセージがあって、お金を稼ぐという社会人の価値観を、学生をやっている人に当てはめて強制的にそのキャリアを否定するような意図を感じるわけです。

 

大学院に進学してからまだ働いてないのか?といいわれることが増えた

 

自分はどうかというと、浪人して、修士課程に2年間いたので同じような状況になったことは何度かあります。

一番最初に覚えているのは、ちょっとこの話とは本質がズレる気がしますが、浪人し始めた時で、

受験勉強の気晴らしに犬の散歩に家の近くの林を歩いたら、近所のおじさん(おじいさん?)にすれ違って、普段は遠巻き挨拶するだけなのにその時は僕に向かって歩いてきました。で、「大学に行きたいからって、働かないのは親不孝者だぞ」とわざわざ言われたんですよね。

その時は、その言葉にかなり驚きつつ苦笑いしてその場を去ったのですが、浪人生になりたてで、浪人たとして成績が上がるのか不安に思っていた時期なのですごい精神的に応えました。

まぁ、その近所のおじさんの気持ちもわかります。まぁおそらくおじさんが学生だった頃は高度経済成長期のころでお家にあまりお金がなくて、なるべく早く家計に貢献することが親孝行だという価値観だったのでしょう・・・たぶん(時代錯誤のような気もしますが)。

それに、僕の実家は家業的なものがあって、おじさんからしたら僕はさっさと学生をやめて家業を継いだ方がいいと思っていたのかもしれません。

ただ、別に僕は親の職業に興味はないし、親も僕がいなくても全然やっていけるので全くそういうことはありませんでした、そこも時代的なものがあるのかもしれません。

まぁ、この話はそんな重要じゃなくて、重要なのは大学院に進学した後に、同年代の友人から「まだ働いてないのか?」とか、海外でインターン生として数か月働いて戻ってくると、「どこほっつき歩いてんだ?」とかそういうことを言われるようになって、就職したから言われなくなると思ったら、今度はまだ「社会人一年目のなのか?」的な話をされるわけです。

こういう話は院生にとってはたぶん、あるあるな話で、大学院同期も同じようなことを言っている人いるし(特に地方出身者に多い)、自分の目の前でそういう会話が展開されることもあって、そんなときは不毛だからこの話やめない?と思ってしまうわけです。

 

 

地元じゃなくて今いる環境のことを考えてみると、

 

で、今の職場はどうかというと、一緒に入社する新入社員の同期には学部生もいるし、院生もいるし、専攻していた分野も、工学や情報がやや多いですが、理学もいるし、経済もいるし、心理学、社会学、芸術とバラバラなわけです。

自分の代にはたまたま博士卒はいませんが例年はいるし、一緒に研修を受けていたグループ内の同期も含めれば、博士や海外の学校を卒業した人もいるし、高専や専門学校生も同じ同期なわけです。

で、同じ関門を突破して入社したわけだし、同じ研修を受けているし、もらっているお金もみんな大体同じなので、出自によって何かが違うということをあまり感じませんでした。なんで、僕が地元で感じるような不快な思いはほとんど社内ではしませんね。

これは他の年次の社員の方でも同じで、でどころはバラバラですが、別にそれは重要じゃなくて、重要なことは「今何をしていて、これから何をするか」なわけです(修士だからどうの、学部だからどうのという発言を聞かないわけではないです・・・)。

でも、確かに学生時代の経験が各個人に生きていて、確かにそれぞれの働き方には違いがあります。だから、学位や出身校は大切なアイデンティティですが、差別の対象ではないと思っています。

ただ、この話を書きながら思ったのですが、自分が不公平や差別を感じないでいられるのは、自分のプロパティが理系修士卒で、社内で一番多いからかもしれません。たしかにマジョリティであることによって自分は差別されることはないのかもしれないし、逆にもしかすると気づかないうちに学部出、博士出、他分野の人に対して、その人が差別や不公平を感じるような言動をとっているのかもと不安になりました。

 

 

そういう話になるのは自分のキャリアしか認められない気持ちと他人のキャリアへの嫉妬心

 

さて、じゃぁ、どおしてあいつは(もしかすると僕も)自分の道(キャリア)を肯定して他人の道を否定するような発言をするのか?という話になります。

それは、完全に自身の人生を受け止めきれてない自己と歩まなかった人生を歩んでいる、他人の人生をへの嫉妬があると思います。

逆に、自分の歩んできた道をすべて認められているなら、他人の道もすんなり認められるはずだし、そもそも他人と自分の道を比較することもないのではないでしょうか?

わざわざ自分が正しかったと思いたいその気持ちがあの何とも言えない光景を生んでしまうのだと思います。

そして、言われた方も自分の人生を肯定しようとしていなければ、他人に否定されても不快に思うことはないのかもしれません。

あくまで自分の周りの話ですが、前述の発言をする人は毎回同じ人物で彼らの中学、高校時代を思い浮かべるともしかしたらこれまでの進路に思うことがあるのかもしれないと感じるからです。

結局、人の進路は自分の内外のいろいろな要素によって左右されるもので、僕はいろいろな自由が保障されている現代においても人の人生は自分で決められる部分は少ないと思っています。

したことがあっても、必要な才能がないとできないし、才能があっても親や周辺の要素によって選択できる選択肢は制限されていきます。さらに、そのもっと上位の概念である運命によっていろいろなことが人のコントロールできる範囲外で決まってしまうと思うのです(僕は割と運命とか自然という信じるのでそう思うだけなのかもですが・・・)。

そういう僕にも自分の人生を肯定したいという思いがあるのかもしれません。いや、あります。

今は理系の大学を修士で出て、ITの世界で働いてますが、この道は中学生くらいから計画していた進路だし、振り返ってもこれが一番順当な道かなぁと思ってても、過去には研究室でもめるまでは大学に残りたいという思いもあったし、逆にもっと早く社会に出ることも考えていました。それに、今もふと思うのですが、海外で就学したり働きたいという思いもあって、いろいろ諦めたり、後悔したり、しているわけです。

でもって、そういう考えは別に今から実行しても遅くなくて、でも、頑張りきれなかったり、一歩振り出せなかったり、他のことを優先してしまう自分がいます。

そういう不安や後悔はきっも誰にでもあって、それを互いに相手にぶつけるとああいう不毛の会話が展開されるのではないでしょうか。

 

 

確実に言えることは他人の人生をいくら攻撃してもそこに自分がもとめる答えはない

 

これは、そういうことを言う人にも言いたいし、自分自身にも戒めたいことですが、結局これまでの自分がしてきたことを認めるためにはこれまでどうだったかよりもこれから自分がどうするかなのではないでしょうか?

ましては、それを他人の人生に求めても、隣の芝生は青く見えるだけで、むしろ疑問が増すだけだと思います。

そして、これから自分がすることにはこれまで自分がしてきたこととは関係がないわけです。

だったら、自分がしたいことを実現するために今できることをすれば良くて、それをしてるならこれまでのことにいろいろ思う必要はないのだと思います。

これも難しいことですが・・・

 

 

人の人生に上も下もない

 

冒頭に上げた現象は単に相手に対してマウントをとってるだけなのかもしれません。

でも、どうやって生きるかは人の勝手で、いままで生きてた何年間もの人生に上も下もなくて、働いている人が偉いという概念もなければ、学位をもってるから偉いということもないわけです。

それは、ただ人間が分業して社会を運営しているがゆえに、人によって役割が違っているだけで優劣があるわけじゃないと思います。

確かに同じことをしていると、数値によっめ差が出てきてしまいますが、方向性に対しては良いとか悪いとかないです。

例えば、大学でパン酵母をずっと研究している研究者と、ずっと窯でパンを焼き続けているパン職人がいるとして、

パン焼いている人は、新しいパン酵母作れないし、パン酵母を研究している人はパンを焼いて街の人に届けることはできないわけです。

でもし、研究者の研究を生かしてパン職人が美味しいパンを焼いたら、どっちの手柄みたいなはなしもなくて、どちらもかけていたら実現しないことなので

まぁ、別にその研究者じゃなくてもいいし、別にそのパン職人である必要もないですが、その結果にはその人たちのそれまでの経験によって形づくられるものだと思います。

だから、何をしてるから偉いみたいなことはなくて、でもそこには、何をするにも勉強したり、工夫したり、繰り返しそれをし続ける過程があってそこは評価されるべきだと思います。

でも、自分含めてそれを理解するのは大変なことなのだも思います。僕も言葉ではわかっていても、いつも表面的なとこだけを見てしまうわけです。

世の中との関わりが見えづらという、研究職独自の背景もあると思います。成果が結果として見えてくるのはいつになるかわからないし、結果に結びつかないことも多い。そうなると一般的な社会人の働くという尺度では、研究職という職業を正しく理解するのは難しいです。

電車が動くのも、ライトで暗闇を照らせるのも、誰かの研究によるものだし、物理的な形を持たない、例えば法律や音楽、言葉なんかも昔だれかが研究したから今機能しているわけですが、実際にそれを使っている当たり前すぎて、その裏にある苦労を人は認識しないのではないでしょうか。

自分は研究室で3年、教授、ポスドク、博士の人と毎日一緒にいたので、研究職がどういうものかその人たちから理解しましたが、そういう機会がなければ本質を理解するのは無理だったと思います。

だから、他者に理解される必要もないし、逆に他者を肯定する必要も否定する必要もないわけです。でも、自分ですら認められないからそれを他に求めてしまうんですよね・・・難しいです。

 

 

うーん、いろいろ考えてみましたが、若者がいろいろなことでマウントを取り合うみたいなことはたぶんいつの時代にもあることで、しかも、浪人時代の僕に浪人は親不孝も言った近所のおじさんのように、その時期を終えても人はいつまでも自分の価値観に囚われているわけだし、しょうがないのかなと思いました

ただ、自分の人生を肯定するために他人に自分の価値観を押し付けて、他人を否定するみたいな展開は当事者も見てる人も辛いので、いつか脱したいなと思いました。

 

それでは。