今から3年以上前、就職したての頃にこんなブログを書きました。
「生きる意味がないと生きられない病について」
内容を軽く紹介します。
- 自分の行動や言動、そして生きていること自体が無意味であり、必要ではないと感じてしまうことが恐ろしくて、その恐怖から逃れるために意味のあることをしようとすることが、自分の行動原理になっている
- この意味がないと生きられない病は、現代病で大昔は短期間生き続けることだけでもかなり難しく、生き延びること自体が生きる意味になったが、今は生きること自体はそれほど難しくなくなったので他に意味を見出す必要が出てきた、といういわば贅沢病と言える
といった内容です
正直この記事を書いた時点では、「まだ自分は社会人になったばっかりで現場にも配属されてないし、こういうふうに思うのは最初だけで、まだ青臭いからこういうことを思うのかな?」、「みんな稼ぐために仕事をしていれば仕事の意味なんてどうでもよくなるのかな?」と思っていました。
ただ、そうではないみたいなんですよね。
まずは3年働いてみて、余計に意味が必要になった
プライベートでも大きな変化があり、社会人としても5年目に突入しようとしている今も一つ一つの仕事の意味、そして人生の意味を求め続ける羽目になっています。そして悩んでいます。
今は、「お金を稼ぐこと、生活すること以外にも働くことに何らかの目的は必要」、「意味がないと頑張れないし、きついことがあったとき精神がもたない」、「自分の人生に意味を求めることは自分の重要な価値観であり原動力」と考えるようになりました。
意味なんて考えたことないし、必要ないと思っている人ももちろんいると思いますが、同様に悩んでいる人も一定数いるし、人の言動を見ているとあの人は人生に意味を見出して行動しているんだなとなんとなくわかるようになりました。
意味と一言で片づけてしまえばそれまでですが、いろんな経験をしていくうちに意味とは自分にとってなんなのかもう一段階具体的に考えるようになりました。
おそらく、意味が欲しいと思っている人も人によってその意味は違っていると思います。だから、自分の普段生活や仕事、そして過去から意味を感じた瞬間を分析して、自分にとって意味とはなんなのか、その共通項から探ってみようとしました。
自分にとっての意味は自分以外に影響をあたえること
社会人になってから自分とかなり長い時間一緒に過ごしている人たちから共通して疑問を持たれることがあります。それは、
「自分の世界で生きているのに、外交的(よく外に出る)のか」
「自分のことしか考えていないのに、なぜ他者と一緒に行動するのか」
たしかに、自己中心的であり、日頃から自分の思考の中に籠っているところがあるのはわかっていましたが、外部に対して積極的であることは自覚してなかったんですよね。
確かに、他者とのつながりを重視します。それは公私共にいえることで常にベクトルが外に向いているんですよね。
昔の友人とも定期的に会っていますし、社会人になってから顔を出すようになったコミュニティーも結構あります。じゃぁ、自分は何を目的に外をふらついているのかというと、外界に影響を及ぼすためなんですよね。
簡単に言ってしまうと「爪痕をいろいろなところに残す」ことが自分の生活の原動力なのだと思うんです。
このブログを7年間以上続けているのも外界に影響を及ぼしたいから
このブログも外界に影響を及ぼす重要な手段です。大学時代から年間20本は記事を書いていて一時期よりは閲覧数は落ちていますがそれでも月に1万回は人に見られています。
結構メッセージ性の強い記事ばかりなので、拒絶されることも多いと思いますが、少なからず僕の考えに賛同して行動を起こす人がいるはずです。それが僕の目的なんですよね。読者の人が行動を起こして世界が変る。ぶっちゃけこのブログの収益なんて大したことなくて、普通にバイトしたり、残業したしたほうが割がいいですが、自分の行動によって外界に影響を与えることはお金に勝るかけがえないことと認識してるんだと思います。
このブログを始めたころ最初に閲覧数が伸びた記事があります(と言っても月に数百件しかPVはありませんが)。それは、研究室を変更するための転室方法をまとめた記事です。学部四年の研究室で先生と揉めてしまい、あと修士2年間この研究室にいなくてはいけないのかと思って絶望していた自分を救ったのが転室だったんですよね。
すべてうまくいったわけではなかったですが、転室によって人間関係で悩むこともなくなり、よりやりたい研究ができるようになって、新しい研究室の分野で就職も決まり、大学入学時から目標にしていた査読付きの論文を通すことができました。
この経験をもとに、最初に入った研究室に貢献し続けることを良しとする大学の世界を本気で変えたいと思いました。
そして、同じような人に自分の経験を伝えれば行動を起こして助かる人もいるのでは?と思ったわけです。
たしかに、悩んでいる人を救いたいという思いもあります。でも、それがメインの目的ではないんですよね。自分を行動させる本当の目的は大学という世界に自分の影響を及ぼして、文化を変えることにあるわけです。
今も冬になると月に数百件ほどの閲覧があります。そのうち20人くらいは実際に研究室を変えればいつか学生が研究室を変えること(転室)が普通になるんじゃないしょうか?
影響 × 人を最大化したい
自分とほぼ毎日レベルでかかわっている人からは「こんな冷たい人間はなかなかいない」と言われてしまいます。ただ、自分で言っちゃなんですが、僕はそんなに悪い人間ではないと思うんですよね。実際、転室の件も行動は他人のために起こしているわけですし。
ただ、本当の目的は自分から見た外への影響を最大化することなんですよね。
さっきの転室の話も、確かに転室ということはそこそこ影響が大きい話ですし、うまくいけばその人の人生に大きくプラスに働きます。でも、自分が興味があるのはそれを日本全国で何人に対してできるかなんです。
10人、100人、1000人と人が増えていけば自分が発生させた効果はどんどん増えていきます。となると、その一人一人にのことは気にならなくなってくるんですよね。
それ自体がよくないことかもしれませんが、同じような感覚で直接あった人にも接しているとその人を待っとく見ていないような非常にドライな人間になってしまうのだと思います。
ITの仕事しているのも、影響を最大化するためだと気づいた
さて、自分がなぜITの仕事に惹かれたのかを、この価値観に気づいたとき理解しました。
もともと、高校生の時からwebサイト構築が趣味でそこそこ閲覧数のあるサイトを構築した成功体験がITで食っていこうと思ったきっかけなのはわかっていました。
ただ、なぜITじゃなきゃいけないかというと、ITを駆使すればいくらでも影響を最大化できるからです。
これも冷たい感覚ですが、さっきの転室の話も僕が転室するか悩んでいる後輩に対して一人一人相談に乗って転出手順を話していては、対応できる数は限界があります。
それに、自分に相談が来る後輩はせいぜい1個か2個下でそれ以降は転出した人がいると知っても自分に連絡が来ることはないでしょう。実際、転室したいから話を聞いてくれと連絡してきた後輩は2人だけです(人望がないのが原因かもしれませんが)。
でも、ブログを使えばサーバーがネットを介して年中無休で情報発信します。
自分が重視しているのはこの感覚なんだと思います。
広義のシステム(プログラムだけではなく、ハードや利用プロセスなども含む)にはユーザー自身も組み込まれると考えています。
個人個人が情報で連結して、一つの組織として、そして一つのシステムとして、一人一人単独で仕事をするより遥かに大きな効果を生み出す。これをITで目指したいと思うんですよね。
ここまで、読んでくださった多くの人が変わった人だなと思っているかもしれません、こういう人とはかかわりたくないなと思ってる人もいるかもしれませんね。でも、共感してくださる方もいるはずです。
また、3年後とか5年後にこの文章を僕が読んでどう思うのか気になりますね。
それでは。