今に始まったことじゃないですが、頼まれると断れない、何でも首を突っ込みたくなる性格のせいで、最近めちゃめちゃ忙しいことになってます。
で、今はゴールデンウィークの中日ですが、一年ぶりに暇だなぁと感じた気がしています。
世の中の状況的に予定が入りづらかったり、もともと入っていた予定がなくなったりして久しぶりに何もすることがないということになってますが(それでもTOEICや資格の勉強はある)、一息付けたのは良かったです。
さて、暇なので家の周りを散歩しながら冷静になって自分の最近の生活を振り返っているのですが、大学生活、大学院生活と比べて確実に忙しくなっているのに、毎日テレビゲームをどんなに時間がなくてもやってます。
残業して、終業が8時とか9時とかになっても、寝る時間を削ってまで15分とか30分とかゲームをしているわけです。
しかも、だいたいオンライン対戦ができるシューティングゲーム(FPS)をやっていて、かなり集中する必要があることをわざわざ仕事でヘロヘロになった後にやっているわけです。
ちなみに、ゲームをした後は本当に何もできなくなってしまいます。確実にこの習慣のせいで生活の質が落ちていますね。実際洗い物や掃除といった家事は朝やっていて、朝に余裕がある職場なのでそれで回せていますが、疲れていて朝起きれないと途端に家の中が散らかります。
ゲームをするせいで明らかにQOLが下がっているし、本当はその時間TOEICなどの自己研鑽に当てればいいのにどおして自分はゲームしたがるんだと不思議に思うわけです。
甘え、ストレス発散だけじゃない
まぁ、普通に考えたら自分に甘いからだと思います。あと、単純に他にストレスのはけ口がなくなってしまっているのでストレス発散をしているのだと思います。実際フットサルなどの他の趣味をした日はゲームをしたいとは思いません。
でも、もっとストレートな理由で自分がテレビゲームに求めているものがあるなと、この数日ぼんやりしていて感じました。
それは、心を動かないようにすることです。もっと直接的な表現をすれば何も感じないようにすること。
なぜそう思うのかというと、疲れているのに敢えて高速な処理や複雑な状況判断を必要とする、数十人で試合を行うタイプのシューティングゲームをやってしまうからです。
別に単に楽しみたい、ストレス発散をしたいなら他のジャンルのゲームでもいいわけです。昔からテレビゲームは趣味ですが以前はゆっくりとしたテンポで進むシュミレーションゲームやRPGもやっていました。
ただ、こういったゲームはそれほど脳のリソースを必要としないゲームでFPSのようにプレイ中、プレイ後何も考えられなくなるといったことはないです。
さらに、ゲーム内に物語があるので、プレイ中も常に心が動いてるし、逆に精神的なものがないと楽しめないものかもしれません。
逆に、FPSは反射と判断をひたすら繰り返すゲームなのでむしろ感情を無にした方が戦績が上がります。
そして、最近感じるのはその状態はプレイ後もしばらく続くのです。
自分の感情が動かなくなると、自然と他者の感情に対しても興味がなくなる、というか感じられなくなるので、完全に精神的なものから離れることができます。それを求めてテレビゲームに依存してしまうという構図なのではないでしょうか。
もともと、感情的なことからの逃げ癖があった
これは自分のようなオタク的な面がある人には共感されやすいことだと思いますが、昔から物質的なじゃない、感情的なものに対することへの苦手意識があって、そういうことから逃げたいという思いがありました。
大学院生時代と労働者である今の自分を比較してもそれほど忙しくなったと思いません。ただ、圧倒的に違うのは精神的なものを扱う機会が増えていることだと思います。
学生時代は成績という明確な数値を上げることがメインのタスクでそれをしていれば誰にも文句は言われないので、感情的なことを無視しても友人関係は置いといて学生生活自体は成立していたのだと思います。
もちろん、先生や自分以外の学生との関わりありますが、実力主義の学生生活では勉強や部活の成績がプライベートにも大きくかかわっていて、数値を出していれば精神的なことは2の次でよかったのかもしれません(って僕が思っていただけだと思います)。
研究室でも、人間関係はありますが、基本的に感情的なことに重点を置かない人間が集まているし、授業や実験、学会発表、論文執筆などの基本的なタスクをこなしていれば、修士までならその量で評価される世界だったと思います。
ただ、社会に出てしまうと人の成果というものを数値化するのがなかなか難しくて、理系的な職業であっても、結局評価は他人が自分の仕事をどう思うかで決まるのではないでしょうか。
特に僕の仕事はプログラマ的な側面や研究者的な側面もありますが、コンサル的な側面が強く、されに、BtoBで顧客のビジネスをサポートするという意味合いが強いので、自分の働きを数値化しにくいし、頑張って働いとしても相手にいい印象を持ってもらえなければ無意味ということになってしまうと感じています。
まぁ、同じエンジニアでも形のあるものを作るハードの人よりも、無形の情報を扱うソフトの人の方がその傾向はつよいとおもうので、なおさら自分は精神的なところに目が行ってしまうのではないでしょうか。
もしかすると、世間一般の仕事よりも「相手を喜ばす仕事」という要素がIT業界のエンジニアには強いのかもしれません。
さんざん感情から逃げてたどり着いた先が人間じゃなく、機械を扱う仕事だったのに、その先が精神につながているがゆえに、他人と自分の心と向き合わなくてはいけなくなったのは何とも皮肉的な結末だと思います。
結局、心からは逃げられない
これは就活時代にめちゃめちゃ感じたことですが、お金にも時間にも食べ物にも道具にも本当は価値はなくて、本当に価値があるものはそれを享受したときに人が感じる感情なんですよね。
働くということも、お金がインセンティブになりますが、結局そのお金の価値を決めるのも自分の気持ちだし、それ以上にやりたいという自分の感情をインセンティブにしなければ、頑張る意味って見いだせないと思うようになりました。
そして、頑張った結果が他人の心によって評価されなければ、それはただの自己満足になってしまう。
と、もう一つ、これは特に部活の友達に言えることですが、職場の人もその他の友人も仕事以外で付き合う時はお互いの感情が重要でそれ以外のことは意味をなさなくなってしまったと思います。
これは家族でも言えることで以前は、親と子という役目を果たしてればとかったのですが、自家を出て、親離れ子離れが進むを逆に話がややこしくなっていくように感じています。
昔、部活をやっていた頃は、友人も部活をやるための仲間であって、一緒にいることは目的があったのですが、今はただ、会いたいから会うという理由しか見当たらなくなりました。
昔の僕は感情的なことからいつか完全に逃れられると信じていましたが、結果たどり着いたところはむしろどこまで行っても感情しかない世界で、ただ、それを受け止められないからゲームをして毎日心を麻痺させるわけです。
勝手な想像ですが、毎日晩酌してお酒を飲まないと眠れない人も僕と同じなのだと思います。
僕はお酒を毎日飲みたいと思いませんが、自分の気持ちと他者の気持ちから逃れる習慣として飲んだくれているのなら理解ができます。
自分は飲みすぎると蕁麻疹ができてしまうし、ゲームをしていたほうが効率的なのでゲームをしているわけです。
人間の原動力は感情、大切なリソースをゲームで浪費しない
この記事全般を通してだいぶ精神年齢の低い話をしていましたが、僕が実年齢もだいぶ若かったころ中二病的発想で、部活で何キロも走らされていたり、テスト勉強で何時間も勉強させられていた時にロボットみたいに感情なしで生きれたらなんでもできるのにと思っていました。
ただ、ロボットを作ったことはないけど、作れるくらい理解したいま、それには大きな矛盾があることに気づきました。
ロボットは与えられた命令(プログラム)をミスなく忠実に遂行できますが、人間の僕は言われたこともできないし、むしろ命令されるとやる気をなくします。
じゃあ何を原動力に生きているかというと、結局のところインセンティブとなりうる感情を燃料生きているわけです。その大切ね燃料をゲームで燃やし尽くしてしまうのはもったいなすぎると思いました。
さて、この記事の結論は結局のところ何だったかというと、大人になったら自他の精神から逃れられるという僕の空想は破綻してしまったので、一時的に対応策としてゲームで精神から逃れようとするのはやめようということです
ちょっと精神的にきついなとかストレスが溜まってるなというときにゲームをやって逃げるというのは別にいいと思うんですけど、毎日心を麻痺させるのを習慣化させる必要はないし、向き合わないでいるといつまでも自分の成長はないなと思うわけです。
というか、あと30年以上、もしかしたら40年以上働くのに逃げ続けるというのは不可能です。
その分の時間を勉強に充てるのが理想ですが、明日心を動かすために、早く寝たりぼんやり過ごそうと思います。
それでは。