教育番組のタマというコンテンツがSNSで流行ってますが、もれなく自分のyoutubeのタイムラインにもタマの映像が流れてきます(そもそもチャンネルをフォローしてますけど)。
ふと思ったのですが、タマは現代日本の阿Qだと思いました。
魯迅の阿Q正伝が中国社会でヒットした時に、読者はみなこれは自分の中に隠している本性だと感じたそうです。
阿Qの弱さというか、心の醜さは人間らしいと思いつつ、現代の日本人にはちょっと理解しがたいところがあります。ただ、清に時代が終わり混乱の中の中国をイメージすれば、人々の心の中に阿Qがいたと言われるとなんとなくしっくりきます。
自分はタマを見ているとこれ自分のことじゃん!ってなります。
そして、コメント欄にもまさに自分だというコメントが溢れています。
もちろん、タマというコンテンツに共感できる人が教育番組のタマのチャネルを観ているので、そう視聴者が感じるのは当たり前だとは思うのですが、
これって当時の中国に生きる人々の本質を描いた阿Qと同じだと思うんですよね。
タマは現代日本人の多くが心に秘めている内なる自分を具現化しているのだと思います。
自己愛は強いけど自分は大切にできなくて、真面目だけど努力はできない、独りぼっちではないけど他人に優しくできない
それでも悪人にもなれなくて、生きづらいと思いながら生きている
そんな(一部の)現代日本人の心の中をメロディと歌詞(とMV)の隅々まで正確に表現した「いきてやる」はもはや芸術だなと思います。
「ぶち殺す」と殺意を歌いながら、それでも人生にポジティブな余韻を残して終わるこの曲は、絶望しながらも生きることを諦めないと一周回ってすがすがしいメッセージを感じます。
MVのコメントで、「現代社会を生きる活力は希望でも慈愛でもなく、殺意」というコメントがありました。自分も、まさにこれまでの人生そうだったんですよね。
学生時代も社会人になってからも、自身や集団の中で敵を作ってネガティブな感情をぶつけて努力してきました。
話はズレますが、最近引っ越したので引っ越し先の近くの歯医者に初めて検診に行きましたが、学生時代から指摘されていた歯の食いしばりでかなり歯が削れてしまっていると言われました。
糸切り歯はとっくの昔になくなっているのですが、前歯も奥歯もまっ平になってしまって、人生三度目のマウスピースを作らされました。
ただ、マウスピースは無意識で外してしまったり、特にストレスが多い時期は不眠でただでさえ寝付けないので故意で外してしまって結局あまり使いません。それでも1年くらい使うとマウスピースがボロボロになるので、ぞっとします。
さらに、今回はあごの骨も変形していると言われました(下顎隆起)。昔は歯並びがよかったのですが、それもだんだん悪くなってきましたね。
寝ている時(時には起きている時も)ずっと歯を食いしばって生きているのでしょうがないですね。
でも、この現状にどうしょうもなく落ち込みます。そもそも仕事のストレスに対してイライラすること自体が無意味だとわかっていますが、許せないことは許せないんですよね。
そんな、職場の社会と自分自身を呪いながら生きてい現状を変えたいですが、変える気力がないです。
タマの話に戻りますが、タマにはパウルや”はかせ”がいるし、充実はしてないかもしれませんが、それでもそれなりに毎日多少の幸福は感じて生きていると思います。
でも、パウルや”はかせ”がいなかったら、バイト先?のしゃちょうとの関係性がさらに悪かったら、それだけで生きにくい世界が生きられない世界に変わってしまいます。
日常は本人が認識しているよりずっと微妙なバランスで成り立っていて崩れてしまうときは一瞬なのではないでしょうか?
教育番組の世界が一線を超えないのはそれは創作物であるからであって、現実はそうではありません。
誰かが犠牲になる理不尽さが現実にはあります。
最後に蹴ったゴミ箱も自分で立て直したとこに、常に人の足を引っ張ったり、蹴落とすためにアレやコレや忙しなく行動している自分と比較してしまい涙が出ました。
思えば、タマは日常的な三徳包丁を持ち歩いてますが、それをパウル以外に突き刺したりしないですね。パウルには刺しますけど、
自分も心の中にイマジナリー三徳包丁を持って働いていますが、社会人になって最初に学んだことは刺される前に刺せということで、日頃から全方位を刺しまくりです。
本当はそんなことするために働いてないですし、どうしてこうなってしまったのだろうと思っていますが、いつの日にか生きるためにしょうがないことだと思うようになってしまいました。
これは私だけでは、組織全体で起きていることですが、精神的に不安定になっている自分物が被害者にもなるし加害者にもなってどんどん人がいなくなるんですよね。小さなガラスのシャーレの中で細菌たちが生存競争を繰り広げているような状態です。会社のその細菌の中で生き残った株だけを刈るわけですが、
だんだん、自分の属している組織から人がいなくなってきました。別に全部自分が悪いとは思いませんがそういった日々の中で徐々に人が離れていったんだと思うと寂しい気もしますが、それでも生存本能が勝ってしまうんですよね。
生きることと、他者を陥れることは同義ではないです。という意味でタマの「生きてやる」という言葉と自分の「生きてやる」と言う言葉のニュアンスは違います。
殺意を原動力にしているのは同じでもそれを行動に移すのかというところには大きな隔たりがあるんですよね。
という意味では自分はタマに共感しつつ羨ましく思っているのだと思います。
まぁ、今からでも遅くはないですよね。
それでは。



